「偉い!立派だ!」「君は勇気のある青年だ!」「将来を応援したい!」「道徳の教材になってほしい」「うちの会社で是非採用したい!」
こんな言葉は普通に大学生活を過ごしているだけでは中々もらえません。しかし環境の不遇や自分の弱さから過ちを犯し、それを素直に謝罪しただけでこのような扱いに格上げされる風潮には強い違和感を覚えるのです。
冒頭の言葉は2018年5月の日本大学アメフト部が起こしたタックル事件、そのタックルを行った当事者、宮川選手が会見を開いた後のネット上のコメントです。
報道によると、宮川選手は部内で干され実践練習等からも外されていたようです。それは監督の常套手段だったらしく、そこから選手の奮起を促し実力を向上させるのが目的だったとのこと。
そんな中、試合に出たければ相手のクォータバックの選手を潰せ、と唆され、「クォーターバックを潰すので試合に出して下さい」と宮川選手は直訴します。
試合の前にもコーチから、出来なかったでは済まないぞ等の言葉を掛けられ、ボールを持っていない相手に全治2週間にもなるタックルを、後方から仕掛けたというのがことの本末です。
宮川選手がタックルをしなければいけない状況に追い込まれたことは想像に難くないですし、そのような行動を起こしてしまうのも理解が出来ます。そして何より本人は、そこで断れなかった自分のせいだと、自分の弱さを認め謝罪しています。
僕はこの会見も見たとき、そういう経緯なんやね、当然の謝罪やね、とだけ思いました。そりゃ犯罪に近い行為を行い、実際に被害届が提出され、その実行者なのだから、反省し謝罪したい気持ちがあれば誠心誠意謝るでしょう、謝らないなら人としてどうなの?って思います。逆にこの立場で私謝りませんよーって人いるんでしょうか。
しかし世間は、そうではないようです。冒頭で述べた、賛美の言葉で溢れかえっているのです。現代の若者の手本のようで清々しい、みたいな言葉さえあります。手本ってなんですか…精神的に追い詰められ過ちを犯し謝罪することよりも、精神的に追い詰められない強さを持ち、毅然とした対応が出来る人が手本であるべきでは?
あの状況で拒否できる人間はいない、とでも断ずるのでしょうか?選手を干して奮起を促すのが監督の常套手段であれば過去に同様の環境に置かれた選手は多数いそうです。でもその人達は耐えたり自己防衛のために逃げたりして回避してきたんじゃないでしょうか。だから今まで大きな問題にならなかった、そう思います。
そして何より本人が、あそこで拒否すべきだったと反省しているのです。それを、あの状況で断れるはず無いじゃないかと断じ絶対拒否できなかった論で思考するのはどうかと思います。
謝ることって僕の中では、元の評価ラインまで出来る限り戻すための行為だと思うんです。自分が100と評価されていた、ミスをして60まで落ち込んでしまった、謝ることで85まで回復させた、あとはその後の実績と信頼で100まで戻す。みたいなものが謝罪という行為の効果であると思うんですよ。
自分は全くミスせず進めていた、ライバルはミスをしたが誠心誠意謝ったことが評価された立派だ!偉い!など賛美されて評価がうなぎのぼり。こんなの変でしょ。いや、そいつミスってるやん…と
人間は権力や大きな組織が大嫌いですから、日大のタックル問題は大学組織と監督やコーチの酷さが明るみになりとにかくそっちを叩きたいんでしょうね。
叩くためには被害者が多いほうがいい。なので宮川選手という加害側組織の人間を完全なる被害者とみなし、大学・監督コーチ叩きを加速させることに心酔してしまっているようにすら見えます。
宮川選手に対しては、確かに悪質な行動をしてしまう環境にあったと思うし、ただ一方でそれを断れない己の弱さを反省している、それを人生の糧にして次は断れるよう強くなろうね。くらいでいいんじゃないですか?なぜ過剰な擁護や応援、賛美を加えるのか僕はさっぱり理解できません。
世の中には、己の弱さから犯罪を犯してしまったが、反省し被害者側に謝罪し、刑期を全うし模範囚として出所してくる人が多数います。つまり自らの過ちを認め反省し謝罪している人です。でも残念ながら日本は犯罪歴がある人は真っ当に過ごすことは不可能です。過ちを犯しても謝ればオールオッケー、ましてや社会の手本として賛美されるという状況が如何に異質か分かると思います。
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